My Story ~ Miyuki Nishimura

こんにちは!ブランド+WEBデザイナーのMiyukiです。この記事では、私の人生についてざっくりと綴っていこうと思います。これまでInstagramやPodcastなど様々なプラットフォームを通じて、発信をしてきましたが、時間軸に沿ってじっくりと私の人生についてシェアしたことがなかったな〜と思いました。というわけで、この記事を通じて、読者のみなさんには、「Miyukiってこんな人(ギャル)なのか」と知っていただけたら、と思います🫶笑


My Childhood🤍

(左)お兄ちゃん、(真ん中)妹、(右)私

バドミントン漬けの小・中・高時代🏸

1994年4月1日生まれ🌸西村家・3人兄弟の真ん中っ子として福岡の北九州で育ちました。小さなころから、わんぱくで、基本的に家にいることは少なく、公園や友達のお家などチャリを漕ぎ回して、地元を駆け回っていた気がします。小学5年生の10歳の時に、バドミントンを始めて以降は、バドミントン漬けの生活。中学を卒業した後は、福岡のバドミントン強豪校である高校に進学し、寮に住みながら朝から晩まで練習+1年間の3分の1くらいは、大会や遠征で学校を公欠するような、まさに、”バドミントン漬け”の生活を3年間送りました。(ちなみに学校に行ったとしても、午前中だけ授業、午後からは部活、みたいな、”THE・私立のスポーツクラス”な、スケジュールでした。教科書一冊も終わったことないw)

とてもありがたいことに、バドミントンをしていたおかげで、高校・大学と、受験勉強をすることもなく推薦で進学することが出来ました。高校を卒業して、福岡大学と呼ばれる、福岡でも大きな大学の英語学科に進学したのですが、英語の勉強どころか、「単位が取れればそれでいいや」くらいの感覚だったので、サークルや友達と遊んでばかりの毎日でした。今振り返ると、バドミントンばかりやってきたので、「バドミントンに振り回されることなく、学生生活楽しみたい、遊びたい!」の一心だった気がします。


Studying Abroad in the U.S.🇺🇸

人生への危機感からの編入留学

ただ、そんな遊んでばかりの生活が続いていたころ、大学1年生の終わりにふと「今の自分にはバドミントンしかない」と危機感というか、将来への不安を覚えるように。ただえさえ、受験勉強をしてこなかったので、学力も無いし、英語学科にいる割には全く勉強していなかったので、英語を喋れるわけもなく、英語の文法や単語力も中学生のころのまま。

3年後に大学を卒業する時に、「遊んだ記憶」と「バドミントン」しかない自分を想像すると、シンプルにぞっとしたので(笑)、「とりあえず短期留学に挑戦してみよう」と思い、大学の主催するアメリカへの短期留学プログラムに応募。筆記試験+面接を経て、20人の留学枠に入れてもらえることになりました。(後から主催側のスタッフの人に、「卒業する時にバドミントンしかない自分で卒業するのが怖いです🥺」と面接中に、正直に伝えたのが印象的だったらしく、「”変人枠”で入れた」と笑いながら話してくれました。(本当にありがたい🥹w)

そういうわけで、2015年の年明けすぐに、アメリカのカンザス州にある大学に1ヶ月短期留学へ。1ヶ月という短い期間でしたが、現地で出来た友達と遊んだり、ホストファミリーと交流したり、現地の学生の勉強する姿勢やメリハリの効いた生活を目の当たりにして、「私がやりたいことって、”英語を勉強すること”じゃなくて、英語を使って生活したり、”何か”を勉強することじゃんか」と気が付きました。そこで、現地の大学の「留学センター」のスタッフに、「こっち(当時いたカンザス州の大学)に長期で留学する方法ってない?」とダメ元で聞いてみたところ、「交換留学はしてないんだけど、編入しておいでよ!」と、提案してもらいました。詳しい話を聞くと、これまで福岡の大学で取得した単位をアメリカの大学に移行することで、その分早く卒業が出来るシステムのこと。また、現地の大学と私の当時通っていた福岡大学が姉妹校ということで、学費も安くしてもらえる(当時の福岡大学と同じくらいの学費👼)、とのことでした。(ダメ元でもいいから聞いてみるって本当大事ね🥺)こんなおいしすぎる話、逃すわけにはいかない🔥と、火がついた私は、日本に帰国してすぐに、両親からの許可を得るため、速攻地元の北九州に帰省。

パパとの我慢合戦

私のリベラルなママは、すぐにOKを出してくれたのですが、厄介だったのが、パパ💀www。理由も教えてくれずに「NO」の一点張りでした。「何が何でも絶対にアメリカに戻る🇺🇸」と決意していた私は、その後も1週間くらい、パパに張り付いては、「ねえ、行ってもいい?🥺」と、大学の学費の資料や、卒業後のアイディアなど、数字と計画と熱意と一緒に、納豆よりも粘り強く、パパに攻めを入れていきました。そして1週間ちょっとが経ったころ、ついに娘からの攻撃に耐えきれず、パパは白旗を振り、アメリカの大学編集への「YES」(許可)を出してくれました。

編入留学が決まった直後は、大忙しの毎日でした。編入が決まったのが3月。それからアメリカの大学での新学期が始まる8月までの5ヶ月間で、編入留学の準備を進めていきました。留学エージェンシーみたいなところにお金を払う余裕もなかったので、単位移行のためのシラバスの翻訳や、学生ビザの手続きも、全て自分で準備しました。(当時は英語も全然出来なかったので、この当時の自分を褒めたい🥺👏)

全ての準備が整って渡米する当日。福岡大学の仲良しの友達や、家族が空港にお見送り来てくれる中、これから始まるアメリカでの生活へのワクワクと不安はもちろんのこと、こうやって私の挑戦を応援してくれる家族や友達に恵まれたこと、感謝の気持ちで涙が溢れそうになりました。そんな感情的な時間も束の間、アメリカのカンザス州に戻ってきてからは、多忙な毎日が始まりました。福岡大学では、英語学科にいたのですが、アメリカの大学への編入を機に、”Art History(美術史)”と、”Media(メディア)”をメインに勉強することに決めました。「アメリカは入学するのは簡単だけど卒業するのが大変」と言われているのですが、授業が始まってすぐにそれを体感しました。特に最初のセメスター(学期)は、授業中の教授の言っていることはもちろん、その日の宿題や課題さえも理解できず、すぐにメンタルブレイク💔図書館で泣き崩れました(笑)

「英語が理解できない」のは、気持ちや熱意だけで、どうにかなるようなことでもなかったので、同じ授業を取っているクラスメートの子を図書館で見つけては、勇気を出して話かけて、宿題を教えてもらうところからスタート。大量のリーディング(教科書を読み進める)課題も、辞書を片手に、時間をかけてコツコツと進めていきました。そこから徐々に徐々に、アメリカでの学生生活での対応力や、英語力を在学中の3年間で少しずつ伸ばしていきました。

多忙、だけど、充実した大学留学生活

月曜から金曜までは、授業や宿題で勉強漬け+図書館に通う毎日で、土日は、友達のアパートで、ホームパーティーをしたり、ホストファミリーと一緒に時間を過ごしたり、カフェに行って宿題を進めたりと、とっても”メリハリ”のある大学留学生活を送りました。

それ以外にも、インターンやバイトにも挑戦しました。地域の図書館のアートギャラリーでのインターン、学校が配布しているマガジンの制作・デザインのバイト、学校内の美術館でバイト、留学生向けのイベント企画などなど。卒業する年の最後のセメスターなんかは、最初のセメスターの私からは想像できないくらい、アクティブに社交的に学生生活を送っていた気がします。(”慣れ”ってすごい。)私の住んでいたカンザス州は、め〜っちゃくちゃ田舎な州だったので、日本語を話す機会がめちゃめちゃ少なかったのも、英語力を伸ばすには良い環境だったな、と今振り返ると思います✨

アメリカの大学図書館で課題を進めている私😂


The City Life in New York🗽✨

憧れだったNYCでの”シティーライフ”をスタート。なはずが…💀

そして3年間の大学留学生活を経て、晴れて卒業🥺🎓✨受験勉強を経験してこなかった私にとって、3年間みっちり勉強する生活は、とっても大変だったけど、胸を張って「やり切った!」と思いながら卒業したのを覚えています。卒業してからは、大都市のNYCへ🗽✨田舎な場所に住んでいたので、「次はシティライフを送りたい!」と思い、卒業後のNYCへのお引越しを決めました。

アメリカの大学の授業で学んだ「グラフィックデザイン」のクラスが楽しかったので、「とりあえずデザインのお仕事やってみたいな〜」くらいの感覚で、職探しを始めました。卒業式を目前の数日前、NYCのブルックリンにある、アートギャラリーとカフェが合体したショップでの、グラフィックデザイナーとしてのお仕事が決まりウキウキ。心を躍らせながら、新生活が始まるブルックリンへとお引越ししたのですが、そんなウキウキも束の間。お仕事が始まる初日に、「内定取り消し」を言い渡され、世界有数の物価の高い街での無職での生活が始まりました💀。(内定取り消しの理由は、会社内での人間関係のトラブルが原因で、完全に私が巻き込まれた迷惑すぎる展開でした💔今振り変えると、そんな悪環境の会社で働かなくて良かった🙏と思う)

とりあえず生活費を稼がないと!と焦っていた時に、インターネットの掲示板で見つけたのが、「日本食レストラン」の立ち上げのお仕事。すぐに連絡をし、お店に行って面接をしてもらい、その日からお仕事をさせてもらえるように。オープンすらもしていなかったので、内装・外装のペンキ塗りやボードデザイン、メニューや配布用の紙媒体のデザイン、毎日のSNSでの投稿など、アメリカでの大学生活で学んだことが早速生かされたお仕事でした✨(今のパートナーの彼とも、このお店で出会いました👨🏻🫶)そしてありがたいことに、そのお店を通じて、NYCで数十年ベテランデザイナーとして活動している方の、アシスタントとしてデザインのお仕事をさせていただけることに。

同世代の友達に受けた生き方・働き方のインスピレーション

憧れだったシティーライフ、NYCでの生活は本当に、毎日があっという間で、当時24歳だった私の視野や世界観、美的・クリエイティブセンスを大きく広げてくれる時間でした。特に驚いたのが、同じ世代の20代の友達たちが、すでにフリーランスとして活動していたこと。同じ世代の子達が、すでにバリバリと、自分のスキルや実績を使って、本業や副業以外にも、フリーランスとしてお仕事をしているのを目の当たりにした時に、”どこか年齢で制限をかけていた自分”に気がつきました。当時の私は、「いつかパソコン一つで場所や時間に制限されない働き方がしたい」と、ぼんやりと考えていたものの、「そういった生活は、キャリアや経験を積んだ30代になってから」と無意識に思っていた気がします。

先入観や年齢といった”くくり”に縛られず、自らの意思とスキルで、人生を切り開いている同世代のイケイケギャルたちが周りにいてくれたことで、「私にも出来るかも!」と、自分の可能性に賭けてみようと、見よう見まねでフリーランスとしての活動を始めました。「デザイナーのお仕事やってるよ、デザイン必要ない?」と、知人や知り合い、友達に声をかけては、名刺やフライヤー、WEB制作などのプロジェクトをいただけるように。当時は、価格というよりも実績を積むために、”プロジェクトをいただけること”自体が、ありがたかったので、デザインに関することであれば、何から何でもやっていました。

そして発信活動を始めたのも、この時期。アメリカの大学留学当時から、海外のYoutubeやPodcastをよく観たり、聞いていたのですが、「私が観たい・聞きたいコンテンツ(自己啓発やライフスタイル)を、日本語でやっている人少ないな〜」と思ったのがキッカケで、まずは、Podcastを始めました。当時は、NYCでの生活や、Girlbossとしての働きかたについて発信していました。懐かし❤️‍🔥w



Covid + Life in Japan🇯🇵

日本への帰国+自分の「働き方」を模索した1年半。

そうやって本業のお仕事とは別に、フリーランスのプロジェクトや発信活動で忙しく生活している間に、コロナが大流行。先の見えない不安と、当時持っていた就労ビザが切れるタイミングだったので、当時一緒に住んでいた彼をアメリカに置いて、日本に帰国することに🇯🇵🥲帰国したはいいものの、私が帰国した時期は、「おうち期間」で、外に出れるような雰囲気ではありませんでした。どのくらい日本に滞在するかもわからなかったので、「この日本にいる時間を大事に使おう!」と思い、”スキルアップ+自分のビジネスを軌道に乗せること”にフォーカスしていきました。

当時は、デザインのお仕事以外にも、英会話やコーチング、ライティングのお仕事などにも興味があったので、インスタグラムやポッドキャストで、募集をかけては、英会話やコーチングのパッケージの提供、ライティングのお仕事を単発で受けたりなど、まさに、”色んなこと”をやってみました。そして結局のところ、「やっぱりデザイナーとして活動していきたい」と一周回って確信がついたので、デザイナーとしてのスキルアップも兼ねて、地元・福岡にあるデザインスタジオで、契約社員としてお仕事することに。このデザイナーとしてのお仕事の取り方も、求人サイトではなく、福岡にあるデザインスタジオを片っ端から、ネットで調べて、自分が働きたいな、と思うようなスタジオに、直接メールを送っていきました。(その後自分でデザインしたレジュメ、ポートフォリオを持って、面接に行った感じです。)

コロナ期間中でリモートでのお仕事がメインだったのですが、その会社では、ロゴやウェブデザイン、ウェブサイト用に使用する撮影のアイディア・ディレクションなど、スモールビジネスというよりは、企業を相手に、デザインやブランディングの提案をしていくお仕事が多かったです。日本での社会人経験が無かった私にとって、ベテランの先輩デザイナーや社員の方たちが、どんな風にクライアントの方とコミュニケーションを取るのか、どんな風に打ち合わせをリードしていくのか、など。デザイン以外の学びもめちゃめちゃ多かったです。(アメリカでのデザインのプロジェクトの進め方や、働きかたの文化の違いを体感できたのも良い経験🫶)

「再び海外に出る」ことを決めたので、その会社とは、4月の新年度をキッカケに、サヨナラ(退職?)したのですが、その会社で働かせていただいた3ヶ月の期間は、今の私の、フリーランスとしての働き方の基盤を作ってくれた大事な経験だったな、と思います✨




Starting my own business at 25🏃‍♀️

ブランド+WEBデザイナーとして活動をスタート

3月末に福岡のデザイン会社を退職し、7月に再び海外に出るまでの約4ヶ月間は、本格的に自分のデザインのビジネスを軌道に乗せていくことをゴールに必死に動いていました。一度リセットする気持ちで、「どんなデザイナーとして、どんなクライアントと、どんなお仕事をしたいか」といったことを、自分の中で掘り下げていき、最終的に、「ブランドデザイン+WEB制作」というところに辿り着きました。海外のオンラインビジネスオーナーや、ロールモデルを普段から見ている私にとって、日本のオンラインビジネス業界の、ブランディングやWEBサイトを見ていると、「女性らしい=ピンク」や、「起業家=スーツを着た男性」みたいな、固定概念や型にハマった、ありきたりなで、個性の感じないものばかりで、何とも”いたたまれない”気持ちになっていたからです。

デザインのスキルはあったものの、「ブランディング」や「WEB制作」については「スキル・経験不足」だと感じたので、本を読んだり、講座を受けたり、複数のBETA(モニター)プロジェクトを通じて、学んだことを実践やプロジェクトの導線等に落とし込んでいきました。ありがたいことに、ポッドキャストやYoutubeなどで、発信活動をしていたおかげもあり、徐々に、「ブランディングをお願いしたい」、「WEBサイトを作ってほしい」といった、オンラインビジネスオーナーからのお問い合わせを受けるように。そして、一緒にお仕事をしたクライアントの方が、また別のクライアントの方を紹介していただき、口コミや紹介を通じて、プロジェクトやクライアントを獲得できるようになりました。

その後、25歳の7月の中盤に再び、憧れの海外ノマド生活を実現すべく、NYCへと再び飛び立ちました。正直、「ビジネスが軌道に乗ったな」という感覚は無かったのですが、「どうにかしてみせる❤️‍🔥」という、若気のどこからともなく湧いてくる謎の自信を胸に(笑)、NYC行きへの飛行機へと乗り込みました。その後もありがたいことに、クライアントやプロジェクトの依頼は途切れることなく、NYC、フロリダ、そしてメキシコといったように、海外を転々としながら生活する、私の憧れだった「ノマド生活」が始まりました。

The Nomadic Lifestyle❤️

控えめに言って最高だったノマド生活🥺✨

実際に憧れだった海外でのノマド生活をやってみた感想は、控えめに言って最高でした🥺✨コロナで1年半の間、遠距離恋愛を続けていた彼(👨🏻)に会いにまずは、アメリカへ🇺🇸✨コロナをきっかけに、大工さんから「ソフトウェアエンジニア」へと転職するために、オンライン講座で勉強を頑張っていた当時の彼と一緒に、フロリダのコンドミニアムで約3ヶ月の間一緒に生活しました。アメリカのビザが切れていたため、3ヶ月間しか滞在できなかったので、アメリカで3ヶ月過ごした後は、メキシコへと飛びました🇲🇽福岡の大学生時代に、メキシカンレストランでバイトをしていたのですが、その時の先輩2人が、メキシコのカリブ海沿いのビーチタウン、プラヤ・デル・カルメン(略して”プラヤ”)でラーメンレストランを経営していました。その2人からのお誘いもあって、メキシコのビーチタウンに「とりあえず1ヶ月」行ってみることに。結果的に、居心地が良すぎて、プラヤには1年半の間滞在しました(笑)

無事にソフトウェアエンジニアとして、リモートのお仕事を獲得した私の彼も、メキシコで合流し、2人でルーフトッププール付き、ビーチから歩いて5分の綺麗なコンドミニアムをレンタルして、まさに「夢のような🥺」生活をしました。プラヤの街は、メキシコの中では物価が高めではありますが、アメリカに比べると物価は半分くらいの感覚だったので、家賃や外食代なども安く感じました。ブランディング+WEB制作のお仕事を通じて出会った、クライアントであり、今は仲良しの友達となった”ありちゃん”も、アメリカの大学卒業後にメキシコに来てくれたので、ほぼ毎日、ありちゃんとローカルのカフェに行っては、わちゃわちゃと楽しくお仕事をしていました。

ローカルのキックボクシングジムに通ったり、現地でスペイン語を覚えたり、ちょっと早起きして美味しいクロワッサンとアイスラテを片手にビーチで朝日が昇るのを鑑賞したり、プラヤを拠点に、メキシコシティーや、ペルーのマチュピチュに旅行に行ったりと、今振り返ると、なんとも夢のような自由な生活でした。「ワークライフバランスを取らなきゃ!」とプレッシャーを感じることもなく、自然と、お仕事と私生活のバランスが保てるような場所・ライフスタイルでした。短期間で場所を転々とするバックパッカーのようなノマド生活より、1つの場所を基点に、”スロートラベル”な生活をする方が好きな私にとって、このプラヤの街は、ちょうど良い街でした。(近々また戻りたいな〜🫶)

お仕事では専門性を極めていくことを重視。

お仕事に関しては、ブランディングの知識やビジネスへの取り入れ方も、そして、WEB制作の方も、経験と一緒に学ぶことやスキルが身についていき、WEB制作に関しては、WIXやワードプレスなど、様々なプラットフォームがある中、「Squarespace(スクエアースペース)」デザイナーとして、専門性を極めていくことを決意。(Squarespaceを選んだ理由も、また後々ブログでシェアしますね🫶)数週間という短いプロジェクト期間の中で、どうすれば高クオリティーで、クライアントの売り上げやビジネスの認知向上といった、”結果”に繋げていけるかを、日々模索しつつ、試行錯誤していく日々でした。ありがたいことに、メキシコのプラヤの街には、私と同じように、オンラインでお仕事をするノマドワーカーが世界中から集まっていたので、時には、そういった人たちから学びやヒントを得られることも。フォログラファーや、ラッパー、アーティストなど、クリエイティブな友達も多く、撮影の機会や、パーティーにもよく誘ってもらえたので、クリエイティブなアイディアやインスピレーションが身の回りに常に溢れかえっているような、贅沢な環境でした🥺日本から遠く離れているので、あまり情報や認知のないメキシコのプラヤ。海外でノマド生活を送りたい方に、とってもおすすめの場所です❤️✨



Move back to the State in 2023✈️🇺🇸

アメリカのビザ取得、事業の設立:再びアメリカを拠点に。

メキシコ生活も一年半を過ぎたころ、「次は東南アジア(バリとかベトナム)に行こう」と彼と、メキシコを出ることを決意。ただ残念なことに、メキシコを飛び立つ数日前に、彼がリストラされ💀💔次の仕事が決まるまで、いったん東南アジア行きは白紙の計画に戻ることに。私はいったん日本に帰国し、彼は、職探しのため、地元のサンフランシスコへ。それから数ヶ月後、彼が念願だったNBAのお仕事🏀をGETし、アメリカのノースカロライナ州へお引越しすることに。当時まだ日本にいた私は、また遠距離恋愛をするのも嫌だったので、彼と話合って、アメリカのビザを取得することに。

十数人のアメリカ移民弁護士とお話しをして、最終的に、「アーティストビザ(O1-B)」と呼ばれるビザを申請することに。7月ごろから本格的に申請の準備を初めて、取得できたのが12月のクリスマス直前でした。デザイナーとしてビザを申請するのに、過去のプロジェクトに関する書類や実績、過去に一緒にお仕事をさせてもらったNYCのデザイナーの方や、福岡のデザイン事務所の先輩デザイナーなどに連絡をし、推薦レターをかき集めたりと、とにかく「申請するための材料を揃えること」がめっちゃくちゃ大変でした。(ちょうどこの時期に、AIツールのChat GPTが登場したので、書類や実績、推薦レターの翻訳など、めっちゃくちゃ役に立ってくれました👏タイミング神すぎた)10年前は、学生としてアメリカに来ましたが、今回は、デザイナーとしてアメリカでの新生活が始まりました。

学生ではなく、1人のデザイナー・”社会人”としての生活

住み慣れているアメリカとは言え、今回は学生ではなく、1人のデザイナー・”社会人”としての生活が始まったので、LLC事業(M Studio)の設立や、健康保険や年金、確定申告といった、「大人の責任」もしっかり果たすことが求められます。日本のような神レベルのカスタマーサービスが存在しない、適当なアメリカでは、銀行口座一つ作るのも意外と大変です(笑)とは言え、大好きな彼と、ノースカロライナの新たな街で2人で、お互い大好きな仕事をしながら一緒に生活できる喜びを噛み締めていました。

そして2月には、念願の子犬、「Mookie(ムゥーキー)」を飼い始めることに🐶❤️最初の数週間は本当に目が離せず、仕事どころじゃなかったのですが、今となっては最高の「Emotional Supporter」として、日々癒しとエネルギーをくれる存在です🥺✨2024年の夏には、彼の働くNBAチームが変わり、カリフォルニアのサンフランシスコにお引越ししました。ここでも引き続き、ブランド+WEBデザイナーとしてお仕事を続けており、どんな場所に行っても、自分の好きなこと・好きなビジネスができることにとっても、ありがたみを感じます🙏✨

アメリカ行きのフライトに乗る前の写真(福岡空港にて)


さて!ここまで長くなってしまいましたが、私のパーソナルな軌跡をざっくりと辿っていただけたかな?と思います🍃こうやって振り返ると、色んな場所・色んな人・色んなことに出会ったな〜と、感動します(笑)このブログを読んでいただき、少しでもデザイナーとしての私だけでなく、1人の人としての私(Miyuki)を知っていただけたら嬉しいです☺️❤️「もっとここ知りたい!」みたいなリクエストがあれば、コメント欄で教えてくださいね❤️ではでは!引き続き、私、そしてMスタジオをよろしくお願いいたします✨

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